論文システム 先生の声
サンケイシステムのおかげで、低価格でりっぱな『ゼミ論集』をつくることが できるようになりました。「レジャーランド」と揶揄される現代の大学で、『ゼミ論集』を作ることの意義はどこにあるのか。私の経験を語った以下の一文を、三恵社さんへの感謝を込めて送ります。 学問を“ドラマ”にする―なぜ『ゼミ論集』をつくるのか 『論集』刊行で1年を締めくくる 「ゼミ論集の刊行を祝して、カンパーイ!」。こう叫んで始まる飲み会が、わがゼミの1年の締めくくりである。「ほんと、大変だったよな」。 「表紙のデザインもいいな」。「この感激は作った者しか分からないよ」。ゼミ生達は、その達成感を口々に表しながら杯を重ねる。『 論集 』を胸元に掲げて、うれしそうにカメラに収まっている学生達もいる。それは、私自身にとっても、大学教師であることの喜びを実感できる大切な一時である。 クリエイティブであることが“ドラマ”をつくる 年度の初めには「何から、どうはじめたらいいのかわからない」と右往左往していた学生達が、多数の本や論文を読み、数多くのデータを集めるなかで、ある時期から「自分は確かに何かを掴みかけている」ことを感じはじめる。そして、ある時、それまではたんなる“点”でしかなかった様々な情報が、“線”となってつながり始める。やがて、追っかけていたテーマを、一連のストーリーをもって語ることができるようになる。「よし、これだ!」。そう確信してキーボードをたたく。実際、こうしたプロセスなしに、論文は書けない。その興奮は、「教わること」にとどまらず、「つくること」に挑戦した者だけが体験できる紛れもない“知的ドラマ”なのである。 “信頼”を確信させる協同作業 『論集』づくりで学生達が体験するものは、けっしてこうした“知的ドラマ”だけではない。そこにさらに、グループ研究ならではの“人間ドラマ”が積み重なる。最近は、仲間と対立したり、仲間を批判したりすることに臆病な学生達が少なくない。しかし、そうした学生達も、それを避けていてはいつまでたっても論文は完成しないことに気づきはじめる。「誤りがあれば、遠慮なく指摘しよう」「激しい討論こそが大切だ」。こうした気づきが、やがて人間そのものへの“信頼”へとつながっていくのである。 「今の学生は、どうせ遊びとバイトに明け暮れているだけだ」。そう断言することで、 自分自身の教育への取組み不足を自己弁護する大学教師は少なくない。それがいかにつまらないことか―『ゼミ論集』に詰め込まれた“知的ドラマ”と“人間ドラマ”、そしてそれを手にする学生たちの輝く笑顔が、何よりもそのことを鮮明に物語っている。 |